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語り継ぐ戦争 衰弱、意識薄れ 餓死の島から生き残った大久保幸一さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 衰弱、意識薄れ 餓死の島から生き残った大久保幸一さん (2018/08/01)

語り継ぐ戦争
衰弱、意識薄れ 餓死の島から生き残った大久保幸一さん

地面に穴を掘って周りを板で囲んだだけの「野戦便所」から、蚊をたたく音が消えた。「ああ、いよいよまずい」。大久保幸一さん=札幌市東区=は、中でぐったりとしていた戦友を担ぎ出し、幕舎に寝かせた。大久保さんより2~3歳年上の補充兵で、出征前は小樽市の菓子店で働いていたという。
 「おい、一緒に生きて帰るぞ」。大久保さんは呼び掛けたが、彼は衰弱しきってほとんど意識がなかった。死が近いことを悟った大久保さんが「何か言い残すことはないか」と問うと、彼は「白いご飯とみそ汁を腹いっぱい食べたい」と消え入りそうな声で答えた。せめてもと思い、水で薄めた甘味料のサッカリンをガーゼで口に含ませると、やがて彼は亡くなった。体は枯れ木のようにやせ細っていた。     *
 太平洋に浮かぶミクロネシア連邦のウォレアイ環礁。かつて「メレヨン島」と呼ばれた島での過酷な体験を、大久保さんは今も鮮明に覚えている。日本軍は1944年2月、米軍との戦いに備えて島に飛行場を建設。陸海軍の部隊計約6500人が防衛任務などにあたり、大久保さんもその一人だった。だが米軍の空襲で飛行場は破壊され、食料や物資も焼失した。戦線が移ったことで米軍にとって攻略する必要がなくなり、地上戦にはならなかった。しかし残された部隊には飢餓との戦いが待っていた。
 大久保さんが満州(中国東北部)からこの島に転戦したのは44年4月。制海権と制空権は米国に奪われ、補給路は断たれていた。当初は、部隊の演芸会で得意の歌を披露する元気があった。だが、飢えによって次第に気力はなくなった。半年後に食料不足がさらに深刻になり、1日720グラムあった米の配給量が100グラムに減った。急ごしらえでカボチャ畑を作ったり、火薬を使って漁をしたりしたが空腹は満たせない。野ネズミをワナで捕って海水で味付けをして焼き、「無心」で骨ごと食べた。62キロあった体重が37キロにまで減った。大久保さんらに比べ、将校らの配給量は多かった。
 飢えに加えてアメーバ赤痢やデング熱にも襲われ、戦友が1人、また1人と息を引き取った。全体の7割にあたる約5千人が死亡し、その9割が餓死か病死だったという。「あと2カ月戦争が延びていたら、自分も死んでいたと思う」と大久保さんは振り返る。     *
 かろうじて生き残った大久保さんは45年10月に帰国。大分県にあった臨時の陸軍病院で療養した。体力が落ちて白米の飯を食べきれなかったが、カビが生えるまで手元に置いていた。「食べたい食べたいといって死んだ戦友のことを思うと、捨てられなかった」。歌志内町(現・歌志内市)の実家から迎えに来た父と札幌で再会した。だが父は最初、息子だとわからなかった。人相が変わるほどやつれていたからだ。
 「どうして何千人もの兵士が飢えて死ななければならなかったのか。戦友たちは自分の国の上層部に殺されたようなものだ」。大久保さんの強い思いだ。
 壮絶な体験を語れる人は年々減っている。「亡くなった戦友たちのつらさを、一人でも多くの人に伝えたい。それが彼らの供養につながると思う」と大久保さんは言う。




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