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【語り継ぐ戦争】零戦操縦 明日知れぬ日々 北村健次さん

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【語り継ぐ戦争】零戦操縦 明日知れぬ日々 北村健次さん
2020/05/13 公開
戦争末期、九州で海軍の戦闘機零戦に乗っていた。空襲警報でみんなが逃げて行く時に、一目散に空に飛び立つ。敵機は4倍だ。帰れるかどうか、きょうも明日もわからない毎日だった。いまもグラマンに落とされかかった夢をみる。写真は1945(昭和20)年4月、鹿児島の基地に降りた私の零戦の前で、隊の仲間と撮ったもの。ほとんどが20代。みんな若かった。
 戦争は絶対したらいかん。
 でも零戦にはもう一度乗りたい。操縦性能が抜群だった。手足のように右に左に動いた。撃墜記録は4機です。撃つ時は相手の後ろに軸線を合わせてぴたっとつく。ただ、いつの間にか、自分も後ろにつかれていることがある。怖くて振り向けない。奈良の石上神宮を頼り、「いそのかみ」と怒鳴ることにしていた。萎縮したら落とされる。助かる、という信念がいるんだ。     *
 三重県立工業学校(現・松阪工業)卒業後、東京の中島飛行機に就職し、エンジンの設計担当だった。会社の運動会があった42年4月の土曜日、米軍機が悠々と飛んできた。不意を突かれ、迎撃の零戦も出ない。本土初のドーリットル空襲です。これはいかんと思った。エンジンの分かる者の出番だ。海軍飛行予科練習生を志願した。
 43年4月、三重海軍航空隊(津市香良洲町)に入隊した。大量に操縦士を養成している時で、3カ月後には次の練習生が入り、指導役になった。1年で卒業し、その後、マニラ、シンガポールで飛行訓練。ボルネオの戦闘機部隊に実戦配備された。
 すぐ内地の防衛に回された。戦艦大和が沖縄特攻に出た45年4月です。うれしかった。どうせ死なないかんが、親に会えるかもしれん。最初は鹿児島、本土決戦にそなえ、6月ごろ大分の基地に移った。B29やグラマンと戦った。B29は速度も速い。待ち伏せし、敵編隊の前に時限装置付きの爆弾を投下した。腹を見せないよう、自分の落とした爆弾の破片に当たらないよう、機体を傾けて急降下した。     *
 日本航空のジャンボ機が墜落した群馬県上野村の村長だった黒沢丈夫さんは、ボルネオの隊長だった。鹿児島の隊長も黒沢さんの同期生で、ともに名操縦士。おかげで助かった。機体を傾け、横滑りする私の癖を指摘したうえで「無理に直さんでええ」。攻撃の弾も当たりにくいが、敵の弾も当たりにくいんです。
 特攻機の護衛もした。戦闘機部隊の中には特攻に不満もあった。「どうせ落とされるんだから、爆弾を抱いて突っ込め」という作戦だが、それでいいのか。隊長は「絶対にうちからは出さん。俺に不服があっても一緒に戦ってくれ」と言った。
 8月が近づくと、無理するな、飛行機を温存しろとなった。敵が上陸してきたらみんな特攻だ、とも。博多上空で、長崎原爆のキノコ雲も目撃した。こんなことまでするのか。かなわんと思った。
 終戦後、すぐ除隊です。必要になったらすぐ呼ぶ、と言われた。
 戦後は中部電力に勤めた。





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