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語り継ぐ戦争 軍隊の一番嫌な部分見た「陸軍農耕勤務隊」を目撃した雨宮剛さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 軍隊の一番嫌な部分見た「陸軍農耕勤務隊」を目撃した雨宮剛さん (2018/07/21)

語り継ぐ戦争 軍隊の一番嫌な部分見た
「陸軍農耕勤務隊」を目撃した雨宮剛さん

国民学校5年だった1945年5月の朝だった。現在の愛知県豊田市御船町のはずれにあった我が家に、調子の外れた軍歌が聞こえてきた。軍服姿だが、少年のような顔立ちの10代後半から20歳前後らしい若者たちが、くわを担いで行進してきた。
 びっくりした。銃も持っていない。いきなり駆け出し、原野を耕し始めた。数日後、汗だくの2人が、井戸を借りにきた。その時気づいたが、襟章の星が一つもなく、階級がない。話しかけても返事もしない。
 あれは何だろう?
 大人は何も説明しなかったが、子どもの間で最大の話題になった。この時、500人ほどの山村に200~300人もの、くわを担いだ「軍隊」が突然現れたんだから。後で分かったが、彼らは朝鮮から連れてこられた若者たち。戦争末期に日本の農村の人手不足を補い、食糧や航空燃料になるイモを作るために新設された「陸軍農耕勤務隊」の隊員だった。愛知や長野、北関東、九州にも展開し、一部は激戦地の硫黄島にも送られたらしい。
 当時農村の人手不足は深刻で、我が家も父は病気なのに兄2人は兵役。うちの畑は朝鮮人鉱夫を雇って耕作し、5年生の私が監督だった。農耕隊は、(軍の土木作業などをする)軍属と、軍人の中間くらいの性格です。仕事は農作業だが、メチャクチャ厳しい軍律に縛られていた。
 監督は日本人の兵隊で、殴る蹴るの暴行がひどかった。僕も、井戸水をくみにきた若者のほおの黒ずんだ血痕を見た。暴行を見た仲間もいます。松の木に縛って竹でたたいたり、背中に乗って腕立て伏せをさせたり。「なぜあんなひどいことをするんだろう」。田舎の少年たちは気づかぬうちに、日本の軍隊の一番嫌な部分を見てしまった。
 農耕隊の真砂という日本人少尉が我が家を訪ねてきたこともある。うちの父が同郷の山梨県出身のキリスト教徒で親しみを持ったらしい。少尉訪問は大変な名誉だが、後で聞くと、真砂少尉が一番ひどい虐待者だという。僕はキリスト教に不信を持ったね。
 戦争が終わり、9月になると、彼らは姿を消した。でも故郷へ帰る途中、玄界灘で船が沈没し、多くが帰れなかったともいわれている。イモはあとで日本人が収穫した。
 あれは何だったのか。戦後、ずっと気になっていた。終戦のどさくさに書類が焼かれ、研究もあまり進んでいない。郷土史でもほとんど触れられていない。いずれ調べようと思っていたが、2007年に脳梗塞で倒れ、時間がない、と気づき、本格的に聞き取りを始めた。
 全国を歩き、ソウルにも行った。3人の元隊員にも会った。「また行ってみたい」と懐かしがる人もいたが、家族や周囲の恨みはすごかった。傷の深さを実感した。
 ただ、聞き取るうちに、ひどい扱いの彼らに同情した日本の女性や子どもが意外に多くいたことも気づいた。自分の夫や子ども、父や兄が軍隊で同じようにいじめられているんじゃないかと同情し、食べ物を渡したり、かくまったりしたんですね。




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