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語り継ぐ戦争 沖縄戦で被弾、傷抱え逃げた 浜本俊則さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 沖縄戦で被弾、傷抱え逃げた 浜本俊則さん (2018/08/11)

語り継ぐ戦争
沖縄戦で被弾、傷抱え逃げた 浜本俊則さん

照明弾で、沖縄の夜は明るかった。1945年4月29日の深夜、浜本俊則さんは7人の分隊で沖縄本島南部の山中を歩いていた。
 「やられた」。仲間の声が聞こえた瞬間、右足をガーンと棒で殴られた感覚がした。飛び散った土を慌てて払うと、迫撃砲弾の破片が貫通し、血があふれ出ていた。声を出した仲間ともう1人が死んだ。
 山形歩兵第32連隊に合流していた浜本さんは44年8月、門司港(現・北九州市)で「南方に向かう」と言われた。1週間後に着いたのは那覇港。「何だ国内じゃないか」と安心した。     *
 しかし10月から沖縄にも米軍の大規模な空襲が始まった。45年3月23日、本島南西部の陣地から海を見渡すと、300隻近い米軍の艦船で海が真っ黒に覆われていた。4月1日には米軍が本島西岸に上陸。海からの艦砲射撃と戦闘機による空爆、戦車に率いられた地上部隊の3方向から攻撃を受けた。「こちらは応援の戦闘機も来ない。ネズミ1匹も逃がさないように、ゆっくりと追い込まれていった」
 4月29日の迫撃砲弾で右足に重傷を負った浜本さんは、本島東岸の中城村の野戦病院に運ばれた。水がくるぶしほどの高さにたまった壕に寝台が並び、負傷兵が寝かされていた。「苦しい。殺してくれ」「お母さん」。暗闇の中からうめき声ばかりが聞こえた。
 5月下旬、米軍が迫った。「動けない者はここに残していく。浜本はどうする」。見回りに来た衛生兵が動けない負傷兵に注射をすると、しばらくして声が聞こえなくなった。「どうせ死ぬのなら最後まで逃げよう」。壕を出た。
 松葉杖を頼りに山中を歩いた。本島南部の東風平村(現・八重瀬町)に、爆撃による多くの死体が残された「魔の三差路」と呼ばれた場所があった。人が通れるように、死体は道の両脇に寄せられ、幾重にも積み重なっていた。赤子をおぶった母親の上半身が道の右側に、下半身が左側にあった。赤子に傷はなく、飢えで死んだと思った。「兵隊は死ぬのが当たり前だから気にならないが、母子はかわいそうだった」
 昼は自分たちが掘った壕に隠れ、米軍に見つかりにくい夜に動いた。米軍が食べ残したビスケット、空爆で飛び散ったサツマイモを食べた。松葉杖がなくても歩けるようになると、拳銃を持って深夜、仲間と米軍の宿舎に侵入し、ガソリンや食料を盗んだ。
 「寝ている相手は気づいても、我々が銃を持っていると思うから動かない。怖いのは逃げる時。後ろからバンバン撃ってくるのを右足を引きずって逃げた」     *
 戦死や集団自決で約19万人の日本人が亡くなった沖縄戦は6月23日、軍司令官の自決で組織的戦闘が終わった。旭川市にあった歩兵第89連隊が沖縄戦に投入されたこともあり、道のまとめでは道民の死者は1万85人。都道府県別の戦没者数では沖縄に次いで多い。糸満市の壕にいた浜本さんが終戦を知ったのは8月26日。投降して沖縄本島の収容所で1年3カ月を過ごし、46年秋に故郷に戻った。狭心症や胃潰瘍、十二指腸潰瘍など体調不良が続いた。「捕虜の時はいつ殺されるかわからなかった」。ストレスが心身をむしばんでいた。




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