ろうそくの火が点々と続くガマ(洞窟)の奥。ツルハシや小型の熊手で地面を掘り続けると、やがて人骨が次々と見つかった。
北海道斜里町の井上徳男さんと妻の富美子さんは、そんな光景を片時も忘れたことがない。
太平洋戦争末期の1945年3月から約3カ月間、日米両軍が住民を巻き込んで激しい地上戦を繰り広げた沖縄。約20万人が亡くなり、今なお約3千柱の遺骨が地中に眠るとされる。井上さん夫妻は2005年までの15年間、自宅から約2500キロ離れたこの地に冬の間滞在し、遺骨収集に取り組んできた。きっかけは沖縄戦で死亡した徳男さんの兄、清隆さんへの思いだった。 *
清隆さんは1942年12月に徴兵された。このとき栗沢村(現・岩見沢市)の万字炭鉱に徴用されていたため、実家に帰ることなくそのまま出征。満州(現在の中国東北部)に渡った後、44年に沖縄に転戦、終戦まであと2カ月弱に迫った45年6月に亡くなった。22歳だった。
「おそらく二度と生きて皆様にお逢い出来るとは思ひません」「清隆はにこにこ笑ってお国の為に死んで行きます」
清隆さんが沖縄に向かう前、家族に宛てた最後の手紙にはこう書かれていた。手紙には「手形」も記されていた。手のひらを手紙の上に置き、ペンで輪郭をなぞったようだ。
終戦の翌年、清隆さんの死亡通知書が届き、その翌年には木の箱に入った位牌を受け取った。遺骨も遺品もなかった。沖縄戦で戦友を失った道内の男性たちから沖縄での遺骨収集に誘われたが、農業や子育てに追われ、行けずじまいだった。だが遠く沖縄の地で眠る兄のことが、井上さん夫妻はずっと気になっていた。
約30年前、農業をやめて夫婦で建設会社に勤めるようになり、時間にゆとりが生まれた。1990年、大阪で開かれた「国際花と緑の博覧会」を見に行こうかと話し合った。だが、富美子さんは清隆さんの最後の手紙を思い出した。亡くなる直前の義母から託されていたからだ。「同じお金かけて行くんなら、最後に兄さんがいたところを見に行かないかい?」。富美子さんが言うと、徳男さんも「兄貴の骨捜し、やっぱりやらなきゃならんよな」。翌年、2人の遺骨収集の旅が始まった。
それから毎冬、正月が明けると沖縄に出かけた。アパートの一室を50日ほど借り、レンタカーで移動しながら各地で収集を続けた。
最初は兄が亡くなったとされる沖縄本島南部の旧具志頭村(現・八重瀬町)で遺骨を捜したが、沖縄戦の実態を知るにつれ、混乱した戦いの中で兄がどう移動し、どこで亡くなったのかは定かではないと確信。次第に範囲を広げ、糸満市や約15キロ離れた浦添市にも向かった。
兄の骨や遺品とみられるものは見つからなかった。それでも多くの遺骨を見つけ、その数は730柱にのぼる。兵士の個人識別に使われる認識票や軍刀、鉄かぶとなどの遺品も多数見つけた。持ち主がわかって遺族に届けることができた万年筆もあった。
戦後60年の2005年が、最後の収集の年となった。翌年、富美子さんが難病のメニエール病を患い、沖縄行きを断念。以来、2人の遺骨収集は止まったままだ。