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語り継ぐ戦争 ソ連軍が上陸 眠りながら逃げ続けた山門リヨ子さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 ソ連軍が上陸 眠りながら逃げ続けた山門リヨ子さん (2018/08/07)

語り継ぐ戦争
ソ連軍が上陸 眠りながら逃げ続けた山門リヨ子さん

旧ソ連国境まで約40キロ、朝鮮半島北端の港町、羅津に住んでいた。本土と違い、1945(昭和20)年8月8日までは平穏でした。壮年の男まで徴兵され、米軍が港に機雷を落としたが、生活は変わらなかった。
 郊外の私は行けなかったが、あの夜はサーカスが来て、町はにぎやかだった。空襲は日付が変わるころ、始まった。防空壕にも逃げられなかった。照明弾で辺りは昼のようだった。爆弾の衝撃で家が揺れ、焼夷弾が光りながら落ちてきた。
 いったい誰が? 不可侵条約を結び、攻めてくるはずのないソ連軍だった。
 ところが、目立った反撃がないんです。要塞の日本軍は私たちを置き去りにし、すぐ撤退したらしい。
 8月9日か、翌日午前10時ごろ避難指示です。今すぐ荷物をまとめ、山の水源地へ向かえ、と。出発まで2、3時間しかなかった。
 南満州鉄道(満鉄)社員だった父は、仕事で出かけたきり。9歳の私を筆頭に4人の娘を抱え、母はどんな思いだったか。数日分の食料、着替えをリュックに詰めるのが精いっぱい。5時間、歩いた。港で船が火を噴き、沈んだ。     *
 水源地で父と合流できたが、ソ連軍が上陸し、逃げ続けた。夜しか動けない。眠りながら母の服をつかんで歩いた。雨続きだった。隣家の女性は赤ん坊を亡くし、泣きながら埋めていた。
 やっと駅で貨車に乗った。旧満州に入り、国境の駅で小休止したら、ソ連軍機が急襲してきた。ホームの向かいの貨車の日本軍弾薬が爆発。数百人が死んだそうだ。私は駅を飛び出てコーリャン畑へ走った。
 旧満州南部の撫順に着いたのは19日ごろです。満鉄組織が残っていて6畳くらいの社宅の一室を借り、父も安い賃金だが、働けるようになった。トップは中国人になったが、鉄道を動かすため日本人が必要だった。     *
 社宅は戦前の豊かな生活の名残で水洗トイレや電話があった。時々切れたが、スチーム暖房まであった。でも食べ物はコーリャンばかり。ソ連兵士の暴行が怖く、女は丸刈り。母も髪を短くしていた。
 向かいの学校に満蒙開拓団の避難民が大勢いた。服の代わりに麻袋をかぶっていた。飢えと発疹チフスで次々に死に、防空壕跡に運ばれていった。飢えた母親に話しかける中国人を見た。子どもを売らないか、と。男の子より女の方が高かったそうだ。
 帰国のめどがたたず、お金がいる。私も父が仕入れた餅を路上で売った。相手は、炭鉱帰りの日本人や中国人だ。菓子をくれるソ連兵もいた。社宅に中国兵も駐屯し、庭で中華がゆを作って振る舞ってくれた。同宿だからどうぞ、と。
 46年7月に帰国し、母方の実家の三重県鈴鹿市に引き揚げた。父は中学教師になり、約40年後亡くなった。その後、認知症になった母は、「戦争でお父ちゃんがいなくなった。捜しに行かなきゃ」と言って、私たちを困らせた。




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