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語り継ぐ戦争 春日井の兵器工場へ動員された佐々木都さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 春日井の兵器工場へ動員された佐々木都さん (2018/08/03)

語り継ぐ戦争
春日井の兵器工場へ動員された佐々木都さん

1944年8月、旧野澤(のざわ)高等女学校4年(長野県佐久市)の時、同級生約100人とともに愛知県春日井市の旧陸軍造兵廠鷹来製造所(鷹来工廠)へ動員され、翌年4月まで働いた。16歳だった。
 危険な兵器工場へ送られるのに、「これで産業戦士だ」と誇らしかった。戦死者の家に「誉れの家」という札が次々に張り出されていくのに、うちは父が県の地方事務所職員、叔父は結核患者。軍の第一線に行っておらず、肩身が狭かった。
 宿舎に到着した夜、食事に赤いご飯が出た。「赤飯」と思ったら、ぼろぼろのコーリャン飯だった。献立はサツマイモ入りのご飯と漬物、みそ汁ばかり。昼夜2交代制で夜勤もあった。眠くなった時にもらう気付け薬の中には覚醒剤もあったそうです。
 出勤も帰る時も軍歌を歌い、50人ずつで行進。士官をみれば、敬礼した。教師も交代で工場に来たが、授業はなし。「野澤高女の名を汚すな」とはっぱをかけられた。     ■
 11月、休みで友達と名古屋城へ行った。立派な天守閣があった。清正石という大きな石の前で、写真店のおじさんに記念写真を撮ってもらおうとしたら、空襲警報です。慌てて近くの防空壕に飛び込んだ。サイレンと軍靴の音が響き、次いで米軍機の爆音とともに爆撃の衝撃が伝わってきた。「これで死ぬのか」。家族の顔が浮かび、手元のはがきに遺書を書いた。「ふるさと」を歌ってこらえた。
 宿舎は20畳の部屋に16人が寝泊まりした。家から差し入れの食料が届くと、最初は友達と分け合ったが、次第に押し入れに顔を突っ込み、こっそり食べるようになった。「この戦争は勝てないんだって」と漏らす同級生もいたが、みんなで「非国民」と非難したり、彼女が分けてくれたカステラを投げ捨てたりした。もし負けたら私たちの頑張りが足りないせいだと思い込んでいた。同級生は父親が、私は祖母が死んでも帰らずに働き続け、ともに「軍国乙女」の美談として新聞に記事が出た。
 卒業式も工場だった。校長が訪ねてきて代表者に証書を渡しただけ。その後、就職や進学のため、私を含め、約80人が帰されることになった。物資不足で要員が余ってきたことも影響したらしい。ただ約20人が残されることになり、その前ではうれしそうな顔はできなかった。残留組はその後、工場空襲などで危険な目に遭っており、わだかまりが、戦後もずっと残った。     ■
 45年4月、長野へ戻った後、私は同じ女学校の専攻科に進んだ。戦時下でしたが、万葉集などを習った。あえて恋の歌を教えてくれたのは、後に北欧文学の研究で知られるようになる山室静先生です。
 30年後、みんなで手記を書き、やり直しの卒業式を兼ねた出版記念会を開いた。その際、壇上の元校長に対し、山室先生が「生徒に謝れ」とヤジを飛ばし、ひやっとした。




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