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語り継ぐ戦争 家族の死越え兵学校へ 岡島博さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 家族の死越え兵学校へ 岡島博さん (2018/08/04)

語り継ぐ戦争 家族の死越え兵学校へ 岡島博さん

1945(昭和20)年3月、旧制愛知一中(現在の旭丘高校)を3年で中退し、海軍兵学校に入校した。広島県の江田島本校ではなく、同年新設された針尾分校(現在の長崎県佐世保市)です。
 まだ15歳。エリートの兵学校に憧れつつも国のため死を覚悟しての志願です。その2年前、一中の3~5年生ほぼ全員の700人が、海軍飛行予科練習生を志願する「愛知一中総決起事件」が起きた。実際に入隊したのは一部だけだが、その影響もあった。     *
 名古屋駅に見送りに来た父(当時44)、兄(同17)、弟(同12)の3人が数日後、愛知県春日井市の自宅防空壕前で爆弾の直撃を受け、死んだんです。兄は一中を卒業、第八高等学校の入学目前、弟は一中合格の夜だった。
 焼夷弾が落とされたらすぐ消火できるよう、待機していたらしい。壕の中の母と妹は生き埋めになったが、助かった。母は直後、四男を産んだが、この弟はすぐ死んだ。
 私は兵学校到着と同時に家族の死を知った。家にいたら私も100%死んでいただろう。ショックで熱を出し、入校式は欠席した。
 でもその兵学校生活が私を支えてくれた。葬儀のため帰郷する私に教官が駅まで付き添い、励ましてくれた。「気の毒だった。でも負けるな。日本は勝たねばならん」。大学出の若い教官だった。
 兵学校は世界に通用する海軍士官を養成する場所です。沖縄決戦のさなかなのに、ここでは服装、規律動作もやかましく、常にスマートたれ、と指導された。国語、地理、歴史、敵性言語と言われた英語の授業もあった。教えるのは大学教授クラス。水泳の先生は、五輪のメダリスト、という具合だ。一中3年の後半は春日井の弾薬庫に勤労動員され、授業を受けられなかったのとは全く違った。
 軍隊は精神主義で体罰が横行したといわれるが、私が殴られたのは1回だけだ。食事中も、「トツートツ、ツー」とモールス信号がずっと流されていて、自然に体でリズムを覚えさせられた。末期には九州は危ない、として山口県防府市に移転した。ここも空襲があり、さらに移った。生徒を守ろうとした。
 映画会もあった。校庭にスクリーンを張り、4千人が表裏の両側に分かれて見た。裏側の生徒は映像が左右反対に映るが、まあ分かる。男女の別れのシーンは映写機に手がかざされ、見えなくなった。
 幹部の大佐が異動する時には、お別れにみんなではげ頭やひげに触った。大佐は戦後、戦犯として処刑された。     *
 当時の日記は、表紙の裏に「怒濤(どとう) 復仇(ふっきゅう)」と大書してある。必死で自分を鍛え、高めようとした日々だった。
 終戦後、無蓋貨車に乗って帰郷した。戦友と別れるたび、「がんばれよ、がんばれよ」と声を掛け合った。広島では何もない街にドームだけが残っていた。
 帰郷後、母、妹と3人で暮らした。重い荷車を押し自宅跡を片付けた。一中に復学し、師範学校を出て教師になった。防空壕跡に家族3人を悼む碑を建てた。私と弟を可愛がってくれていた歯科医が弟をヒバリに見立てた歌を詠んでくれ、彫り込んである。いまは3人の命の分まで生きよう、そう思っています。




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