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語り継ぐ戦争 フィリピン戦を体験した松永一雄さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 フィリピン戦を体験した松永一雄さん (2018/07/31)

語り継ぐ戦争 フィリピン戦を体験した松永一雄さん

実家の農家を手伝っていた昭和18(1943)年、現役召集で福井の連隊に入って驚いた。装備と新兵のしごきのひどさに。受領した帯剣は、ぼろぼろで、「お前らのは、ぼっこ(ぼろ)で結構。どうせ海の藻くずだ」と言われた。
 入隊して1カ月が過ぎた。「日曜は(売店の)酒保に行ってよし」と許可され、まんじゅうを食べた。夜、「きょう酒保に行った者、一歩前へ」。「たるんどる」と言われ、全員にビンタです。初年兵は外出禁止も続いた。
 まず南方のラバウルへ派遣された。米軍は上陸してこなかったが、マラリアに苦しんだ。体温は40度を超し、きつかった。腎臓も患い、マニラの陸軍病院に送られた。これが運命の分かれ道だった。治療は終わったが、海上移動は危険。そのままフィリピンの部隊に編入された。     44年、米軍が上陸してきた。トラックで前線に向かったが、橋の上で機銃掃射を浴び、橋のたもとの民家に飛び込んだ。住民に手で「出て行け」と合図された。
 携帯食料は1週間分しか持っていなかった。補給は一切無い。逃げ込んだジャングルでは猫、トカゲ、蛇、カタツムリ、カニ、イモ、木の新芽と何でも食べた。今も庭のコケを見ても「あれだけ食べられたら、兵隊がどれだけ助かっただろう」と考えてしまう。農家の貯蔵用トウモロコシも奪った。塩分と水の不足が苦しかった。水牛を仕留めた時は、肉よりまず飯ごうで血を受けて飲んだ。みんな口の周りが真っ赤だった。
 道端では兵隊が死んでいて、ウジがわき、ものすごい臭いがしていた。看護婦まで倒れ、「兵隊さん」と助けを求めていた。
 食料調達の途中、英文の書かれたガムの包み紙を見つけ、米軍の接近を察知し、待ち伏せをしたことがある。米兵を待つ間、故郷で毎日眺めた伊吹山の風景が頭に浮かんだ。腰だめでバリバリ撃つ米軍に対し、こっちは一発ずつしか撃てない明治時代の銃。でも先に気付いたこちらに利があり、撃退できた。もっとも後で気がついたが、腰の水筒に被弾し、穴が開いていた。
 終戦も知らず、何カ月も山中を歩き回った。連隊本部の指示で武装解除し、米軍の収容所に入った。呼び出しの時、転んだら、目の前にサトウキビ。引き抜く力もなく、そのままかぶりついて吸った。
 巨大な米軍機には裸の女の絵が描いてあって、たまげた。「さすがは自由の国だ」。思い出したのはマニラで見た小さな日本の特攻機だ。触ると、ビンビン音がする。なんと布製。あまりにも国の力が違っていた。




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