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語り継ぐ戦争 旧満州で家族7人を亡くした橋本克巳さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 旧満州で家族7人を亡くした橋本克巳さん (2018/07/30)

語り継ぐ戦争
旧満州で家族7人を亡くした橋本克巳さん

敗戦は昭和20(1945)年8月15日の夕方、知った。愛知県出身者らでつくる旧満州の東三河郷という開拓地で、約500人が住んでいた。現地の公安隊に銃を取り上げられ、丸裸になった。それから、匪賊という強盗団に何度も襲われた。戦前、土地をただ同然で取り上げた日本人は恨みを買っていた。
 大和魂で戦い、自決した開拓団もあった。私たちは幹部が激論の末、生き延びようと決めた。その道が、いかにつらかったか。カネを出せ、何か隠していないか。男も女も広場に集められ、裸になれ、と命じられた。子どもの私も銃口を突きつけられた。戦車に乗り、機関銃を乱射する旧ソ連の軍隊も来た。
 11月ごろ、別の開拓団に合流した。19年暮れに現地召集された父と奇跡的に再会した。シベリアに連行される列車から脱走。家族に会いたい一心で、探し当ててくれた。
 匪賊が何百人もの巨大集団化し、機関銃などで武装するようになった。開拓地を捨て、4、5家族の少人数で都会のチチハルに移動することになった。川が凍って渡れるようになる3月ごろです。10日以上、歩いた。3月でも零下30度になる。吹雪の日もあった。野宿すれば死ぬ。中国人の家に泊めてもらった。寒かったろうと、オンドルに当たらせ、あわがゆを出してくれる人もいた。でもある朝、集落の外れで若い衆5、6人が草刈り鎌を光らせて待っていた。
 娘2人を置いていけ、と言うんです。17、18歳だった。髪を切り、男の格好をし、よその子をおぶっていたが、ごまかせなかった。殺すぞ。脅され、2人を置き去りにせざるを得なかった。母親は声を出さずに泣いた。
 元日本人旅館のチチハルの収容所は、500人が詰め込まれた。便所は空き地に長さ30メートルの穴を3本掘っただけ。屋根も囲いもなかった。食料はコーリャンだけだ。伝染病がはやり、まず祖母と弟、それから父と母も死んだ。2歳の妹、4歳の弟も……。私に出来たのは耳や鼻、口から出てくるウジ虫をとってやるだけだった。一家8人のうち私以外は全員死んだ。
 誰かの胸にすがって泣きたかった。父を恨んだ。愛知・新城の貧しい小作農家だったとはいえ、なぜこんな所へ連れてきたのか。21年10月ごろ帰国できた。親戚に引き取られたが、そこでカネを盗んだ。どうしようもないひがみ根性の男になっていた。就職しても、うつになり辞めた。その時、別の親戚に勧められ、天理教の教会へ行った。そこで90歳近い老人がいきなり畳に額をつけ、「どうか許してくれ」と私にわびた。死んだ祖父を知っていて戦前、父の旧満州行きを止めさせようとしたが、説得仕切れず、私をこんな目に合わせてしまった、と。同情してくれた人はいたが、「自分の責任だ」と言ってくれたのは初めて。その出会いから私も信仰に入ることになった。




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