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語り継ぐ戦争 従軍看護婦だった遠島ふささん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 従軍看護婦だった遠島ふささん (2018/07/28)

語り継ぐ戦争 従軍看護婦だった遠島ふささん

昭和17(1942)年4月から19年8月まで旧満州の勃利陸軍病院で看護婦として勤務した。旧ソ連軍機が飛来し、緊張したことはあったが、現地では中国軍やゲリラとの激しい戦闘はなかった。
 ただ衛生状態が悪かった。兵隊の患者は発疹チフス、皮膚病、性病が多かった。梅毒で局部を切断した患者もいて、目を背けたくなった。発疹チフスは高熱が続き、ひどいと脳症になる。うなり声をたてたり、しゃべり続けたり。病室を抜け出したり、衣服をやぶいたりする患者もいた。シラミもひどかった。皮膚にびっしり。ピンセットで何遍とっても湧いてきた。
 余暇にバレーボールやスケートをしたり、慰問団の演芸を見たりする時間もあったが、大勢が死んだ。夜勤でひと晩に重症患者2人が死んだこともあった。情けなかった。葬送は野原で僧職の兵隊が読経し、手を合わせ、遺体を焼いた。愛知県作手村(現・新城市)出身の衛生兵が亡くなり、帰国後、遺族を訪ねたら、5歳の遺児がいた。
 看護婦も死んだ。私も発疹チフスにかかった。患者からうつされたらしい。50日隔離された。たぶんそれがきっかけで帰国することになった。
 出身は愛知県大和村(現・一宮市)の農家です。11年に尋常小学校高等科を卒業した時は、電話局の交換手になりたかった。偶然、住み込みの見習い看護婦として就職した一宮市の個人医院の院長が元軍医だった。翌年日支事変(日中戦争)が始まった。出征兵士の見送りや深夜の必勝祈願のお参りを繰り返すうちに、自分もお国のためにご奉公したくなった。
 13年、傷痍軍人の療養所が各県に創設され、私も応募した。正看護婦の資格が取れるのも魅力で、愛知県では40人の募集に283人が応募した。県庁で試験があり、面接官に「ヒトラーユーゲント(ナチスの青少年組織)とは?」と問われ、答えられなかったが、何とか合格した。
 今の三重県伊勢市や、傷痍軍人愛知療養所(現・愛知県大府市)で研修し、働いた。太平洋戦争開戦は療養所で知った。傷痍軍人と看護婦が結婚する映画の上映中だったが、突然中止になり、大戦果が発表された。そんな環境にいるうちに「ホンモノの看護がしたい」と思い詰め、現地派遣を志願した。
 帰国後は郷里の大和村役場で保健婦をし、一宮空襲の被災者治療を手伝った。終戦直後の20年9月から2カ月、名古屋市中村区の赤十字病院で講習を受け、傷病兵や引き揚げ者の帰国に備えた。防空壕の材木を焼いて燃料にしたり、食料の買い出しに行ったりした。結婚後、一時退職したが、尾西市(現・一宮市)で保健婦として働いた。




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