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語り継ぐ戦争 ニューギニアで死線をさまよった伊藤重一さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 ニューギニアで死線をさまよった伊藤重一さん (2018/07/27)

語り継ぐ戦争
ニューギニアで死線をさまよった伊藤重一さん

東部ニューギニアのウエワクにたどり着いたのは、1943(昭和18)年11月だった。僕は飛行場副主任兼自動車小隊の少尉。空戦のさなか、サイドカーで飛び出し、「不時着不能」の合図の布を掲げたり、至近弾で壕に生き埋めになったりした。もがくほど、土圧が加わった。
 敵の圧力はすさまじく、飛行場が機能したのは、それから3、4カ月だった。ほかの残存隊員と合わせ、約300人で翌年5月、近くの「松の岬半島」の守備を命じられた。司令部は山岳部に移っていたが、僕らは「半島ヲ固守スベシ」。捨て石の玉砕命令だった。
 爆撃、機銃掃射、魚雷艇銃撃に耐えた1年の後、45年5月、敵が押し寄せてきた。全員で髪の毛を砂浜に埋めた。部隊の墓標も立てられた。だが、その日、敵が上陸したのは約10キロ先の海岸だった。艦砲射撃で地形が変わるほどたたかれ、大量の舟艇が押し寄せ、目の前で友軍が全滅していった。
 敵は直ちに重機で道や飛行場を整備した。半島の付け根がワニのいる湿地で、すぐ侵入してこなかったとはいえ、僕たちは袋のネズミだった。ところが6日目、司令部から、半島を撤退し山岳地帯に入れ、と指示があった。会津出身の参謀が転進を立案してくれた。
 とはいえ、それで助かった、というわけではない。最前線の密林を転々とし、特攻を命じられた。3、4人ずつの切り込み隊で敵を脅かせ、という。襲撃の証拠に食料などを持ち帰らないといけない。敵が張り巡らしたピアノ線に引っかかると、音がして自動小銃の嵐に見舞われた。
 本当に理不尽。でも兵隊は死ぬのが当たり前だった。代わりはいくらでもいる。次にどんな死の命令が来るのか、待っているだけだった。松の岬はまだ海の魚がとれ、イモ畑もあったが、山は極端な食料不足だった。雑草を煮て、トカゲを食べた。赤痢、マラリアで次々に兵隊が倒れた。僕も2度、マラリアで死にかけた。
 「友軍と住民の肉を食えば、銃殺にする」という軍命令も出た。敵ならいい、とも読める。実際、隣の部隊は、敵の斥候を殺して食べ、骸骨を銃剣で突き刺し、さらした。日本軍の残忍さを見せつける狙いもあったらしいが、部隊長だった友人は戦後、戦犯容疑に問われた。
 住民と友好関係を築こうと、薬などを与えた。その案内でイノシシ撃ちに行った時、野鶏の卵を見つけた。すぐ上の木の枝が折ってあった。先に見つけた人がいる、という印だ。でも誰もいない。手を伸ばしたら、ひどく怒られた。天を指さし、「太陽が見ている」と言うんだ。家に寄ると、彼らには読めないはずの英語の聖書まであった。素朴だが、決してウソを言わない人たち。あの時は文明とは何だろう、と考えた。
 住民の届けた敵のビラで終戦を知った。45年暮れ、今の愛知県設楽町に戻った。戦後は小中学校教師をした




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