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語り継ぐ戦争 旧ソ連に抑留された鈴木豊也さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 旧ソ連に抑留された鈴木豊也さん (2018/07/26)

語り継ぐ戦争 旧ソ連に抑留された鈴木豊也さん

1945(昭和20)年春、京都の中学を卒業したが、人間魚雷の工場動員などで勉強できず、高等専門学校の受験に失敗した。工場に留め置かれるのは嫌だ。教師に「就職するなら外地だ」と言われ、中学の友人と一緒に3月、満州電業という「満州国」の電力会社に入った。
 敵を警戒し、船がジグザグに海を渡るのは怖かったが、現地は空襲もなく、食べ物も豊富だ。ロシア風の街、高いビル、ロータリーの交差点があり、土地も豊か。研修の後、6月末から黒竜江省の支社で勤務した。小間使の少年がいて洗濯も靴磨きもやってくれた。
 建国理念は「五族協和」で、中国、モンゴル、満州、朝鮮、日本人が協力するはずだった。ところが、中卒の私の配下に満人大卒8人、朝鮮人大卒2人がいた。実務も教えてもらうのに、彼らの給料は私の3分の1、2分の1だった。こんなことでいいのか。実態を知り腹が立った。満人の軍隊もあったが、日本の兵隊は、相手の階級が上でも満兵に敬礼しなかった。
 8月9日、旧ソ連が攻めてきた。米国との終戦交渉を頼もうとしていたことまでは知らなかったが、中立条約があり、攻撃は予想していなかった。相手には日露戦争以来の恨みがあったのにね。国境まで200キロしかなく、駅は前線へ向かう兵士、後方へ急ぐ民間人でごった返した。出先の配電所、変電所の社員や家族を必死で避難させた。私も14日夜の最終列車でハルビンへ向かった。
 玉音放送の後、郊外の変電所警備を指示された。夜、街から「わーっ」という叫び声が聞こえた。暴徒の襲撃だ。怖くて小銃を撃ちまくった。その後、ソ連の収容所へ連行された。捕虜は2千人くらい。民間人でも逃げれば、銃殺だ。日本人隊長が「天皇陛下が自害された」とか、「ウラジオ経由で帰国させる」とデマを発表していた。
 無蓋貨車に乗せられ、次いで1日40キロ歩かされ、別の収容所へ。雨中、山道を歩くと、日本兵が大勢死んでいた。遺体にウジがたかり、顔が真っ白だった。夜は地表が零度近くまで冷えるため、体を木に縛り付けて寝た。
 線路工事に駆り出された。劣悪な食事で発疹チフスが流行した。10日間、40度を超す熱が続き、体が衰え、両手の親指と人さし指で作った輪の中に、胴が入ってしまうほどだった。凍土を掘れず、遺体は隅に積み上げた。
 1年余の後、帰国した。満州で死んだ中学以来の友人宅を訪ね、ご両親におわびした。彼は一人息子だった。出発前、家族から「あなたがやめてくれたら……」と頼まれたのに、一緒に満州に渡り、私だけが帰ってきた。申し訳なくて申し訳なくて。両親はまもなく亡くなった。
 そのお宅で、私の京都の家は空襲対策の建物疎開で壊され、家族は父の実家のあった、今の愛知県豊山町に移ったと教えられた。




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