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語り継ぐ戦争 つかんでいた原爆情報 通信傍受部隊にいた鈴木忠男さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 つかんでいた原爆情報 通信傍受部隊にいた鈴木忠男さん (2018/07/24)

語り継ぐ戦争 つかんでいた原爆情報
通信傍受部隊にいた鈴木忠男さん

1945(昭和20)年4月、私は陸軍の北多摩通信所(今の東京都東久留米市)の通信兵になった。敵の暗号電報などを傍受する部隊で、終戦間際には、米国の巨大な爆弾実験やテニアン島の不審なB29の存在、といった原爆情報もつかんでいた。その情報はなぜ生かされなかったのか。悔しくてならない。
 高等小学校卒業後、三菱の航空機工場で働きながら勉強し、陸軍の通信候補生を志願。無線電信講習所を経て入隊した。一等兵です。はじめに担当したのは、米英ソ中の外交電報の傍受だった。
 1分間に500~600字もあり、とても聞き取れないので、紙テープに信号を印字して読み取り、アルファベットなどの暗号文のままタイプライターで起こし、解読班に渡した。グアム島の米基地から全艦船向けに発する空襲成果などの電報も聴いていた。
 通信所には通信兵だけで100人以上、ほかに米国のVOA放送などを聴く2世の女性もいた。私たちに暗号の解読結果は教えられないし、日本の新聞やラジオも禁じられていた。それでも宿舎の仲間、当番兵として身の回りの世話をした将校の話などから、追い込まれた日本の状況は分かっていた。
 7月ごろだった。将校の部屋に入ったら、九十九里浜沖など東京周辺の海図に無数の赤や青のピンが留めてあった。「見てはならんものを見たな」。将校が言った。電波で確認した米艦船が500隻もいる、というのだ。玉砕か降伏かの瀬戸際だった。
 仲間が、マリアナの米爆撃機B29の無線傍受にも努めていた。本文の暗号はなかなか解けないが、交信冒頭、数字やアルファベットのコールサインは分かった。1機ごとに異なり、発進時の交信をつかまえれば、何機が何時にどこを出発したか、推測できる。本土までの飛行は約5時間だ。途中、八丈島などには目視の監視部隊もいた。迎撃出来なくても、警報を出して避難を促す効果はあった。
 その点で無念なのは、原爆だ。7月の米ニューメキシコであった巨大爆弾の実験は伝わってきていて、我々は「ジェット爆弾」と呼んでいた。テニアンに新たに十数機のB29が到着。近海をなぜか少数機で飛んで訓練していることもつかんでいた。何があるのか。末端の兵隊も不安を感じていた。上層部はもっと神経をとがらしていたはずだ。
 そして8月6、9日。当時、仲間に聞いたが、広島、長崎の原爆投下機の通信を傍受した。だが現地では空襲警報が出されず、多くの市民は不意打ちで被爆した。警報さえ出ていれば、被害は減らせたんじゃないか。B29担当でなかった私だが、申し訳ない気持ちになる。誰があの原爆情報を握りつぶしたのか。どこで伝達が滞ったのか。
 原爆投下直後から、書類の焼却に追われた。灰も残すなと言われた。15日は玉音放送後、「戦犯に問われる可能性があり、身を隠せ」と指示され、4時間後、解散した。戦後、名古屋市で電器商として暮らし、当時の仲間とも連絡を取っていない。ずっと疑問を持ったままだ。なぜあの時、情報が生かされなかったか。




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