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語り継ぐ戦争 東南海地震を動員先で体験した細山喬司さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 東南海地震を動員先で体験した細山喬司さん (2018/07/22)

語り継ぐ戦争
東南海地震を動員先で体験した細山喬司さん

国民学校高等科1年(今の中学1年)だった1944年の10月から、地元の愛知県半田市の中島飛行機半田製作所に勤労動員され、溶接工として働いた。
 鹿児島の中学生や豊橋の女学生ら学徒のほか、西陣織の元経営者ら全国から動員されてきた。昼飯は水気ばかりの、はしも立たない雑炊。腹が減り、女学生も畑の作物を盗んで食べた。
 工員の中には徴兵前の10代後半の不良もいて帽子を頭の後ろでかぶってあみだにしたり、エロの替え歌を教えてくれたりした。すぐ殴る軍人が見回っていたが、働きさえすれば、大目に見ていた。
 1944年12月7日、東南海地震があった。翌日は対米戦の開戦3周年だ。「大規模空襲があるかも」。昼休憩の後、教師が翌日を自宅待機にすると発表した直後、激震だ。悲鳴が上がった。床が浮き上がり、ほこりが舞い、電灯が激しく揺れた。火を消し、酸素やアセチレンガスのコックを閉めた。狭い出口で、人が折り重なって倒れていた。その上を乗り越えたのか、夢中で田んぼへ走った。気がつくと、靴が無くなった。この時、地割れに落ちて死んだり、足を挟まれたりした人もいる。
 僕のいたれんが造りの元紡績工場は倒壊した。戦後、「飛行機のじゃまになる柱を減らし、揺れに弱かった」と言われた。でも大事な飛行機工場なのに、そんなむちゃをするかな。紡績工場当時、社会科見学で中へ入ったが、柱の本数が違っていた記憶はない。明治30年代の建築で耐震性が弱かったんだろう。新築の組み立て工場は鉄筋コンクリート製で残った。
 翌月、今度は三河地震だ。でも飛行機生産はすぐ回復し、生産台数がピークになった。ただ4月以降、空襲で部品や燃料の供給が途絶えがちになり、仕事が出来なくなった。
 それより生活がきつかった。父が早く病死し、中島の清掃婦の母と名古屋の町工場で働く兄が頼りだったが、その兄も東南海地震2日前に徴兵された。僕の給金は強制貯金され、使えなかった。
 自宅の長屋は地震で傾き、柱が1メートルも地中にめり込み、屋根に手が届いた。2月、空襲の延焼対策で建物疎開の命令が出た。2週間以内に自力で出て行け、というんだ。知人の物置の中2階に引っ越す時には、取り壊しの人が待っていた。
 食べ物がなく、野草を食べた。母は今の生活保護の相談をしたが、「そんな人ばかり」と断られた。名古屋や岡崎が空襲でやられるのが見えた。でも何ともならん。戦争は生まれる前から続いていた。みんな死ぬまで終わらないと思っていた。
 終戦の玉音放送は、ピンとこなかった。泣いている教師もいたが、僕らは「腹が減った」と話すだけ。ただ、帰り道、(天皇の写真や教育勅語を納める)奉安殿の前でいつものお辞儀をしなかったな。午後は友達と五目並べをした。
 その後、生活はさらに厳しくなった。別の家に間借りしていたが追い出され、母国に引き上げる朝鮮人集落に移り住んだ。46年4月、旧中島の富士産業に就職し、最初は木造船を造った。




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