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語り継ぐ戦争 名古屋空襲を体験した犬飼忠雄さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 名古屋空襲を体験した犬飼忠雄さん (2018/07/20)

語り継ぐ戦争 名古屋空襲を体験した犬飼忠雄さん

1945年3月19日の空襲で、名古屋市中区大池(現・大須4丁目)の自宅がやられた。空襲対策の建物疎開で家が取り壊され、近所の借家に引っ越したばかり。借家が見つからず予定通り愛知県西春村(当時、現・北名古屋市)に引っ越していれば、家財は助かっただろうね。
 父は出征中。半ば寝たきりの祖父、母、国民学校2年の私、妹が3人いた。私は3年になれば学童疎開に行く予定だった。旅行気分で楽しみにしていたのに、12日空襲で焼け出された母方の祖父が「もう戦争は勝てん。親子離れて死んだらいかん。疎開をやめた方がいい」と言い出し、びっくりした。
 戦後に尋ねたら、町工場で兵器を生産しているのに工具すら足りず、「戦争で一番大事なモノさえ造れずに戦えるか」と考えたそうだ。終戦の時も、嘆く私たちに「空襲が無くなるし、父親が帰ってくるからよい」と言った。
 あの日の空襲は夜だった。警報で起きて防空壕に避難したが、いつもより長く、避難の荷車の音が響いてくる。どうも変だ。母が、家で寝ていた父方の祖父も起こし、家族で避難場所を探した。
 焼夷弾ががらがらと落ちてきて、周囲は火の海だった。歩いていて背中の荷物に火がつき、突然、大声で暴れ出す人がいた。母が「一緒に死ぬんだよ」と言った。
 空き地のコンクリート基礎の陰に隠れた。近くの国民学校や寺が燃え、音を立てて崩れ落ちた。「助けてくれーっ」。叫ぶ声がした。朝になると焼け野原だった。戸板やトタンにのせ、死体が次々に運ばれてきた。衣服は燃えてほとんど丸裸だ。性別が分からず、胴体だけのもあった。黙ってみていたな。西春村の疎開先へ歩いて向かった。松坂屋が窓から大きな煙を出して燃えていた。
 戦後は工場で働きながら夜間高校へ進み会計事務所に勤めた。税理士の勉強中だった72年、「名古屋空襲を記録する会」の結成に参加した。戦争中、海軍が好きで戦後も戦記を読んでいた。旧防衛庁の戦史は全部買ったよ。でも内地がこんなに燃えたのに、本土空襲の記録が陸海軍の作戦記録だけでいいか。町が燃え、住民がどう逃げて死んだのか。後世に残そう。
 毎月、体験談を聞く会を開いた。軍需工場は興味深かった。44年12月の東南海地震の影響は想像以上で、機械が壊れ、復旧中に空襲に襲われた。空襲史にもっと企業側の視点を入れたかった。
 会の十数人の役員の多くは学者や詩人、教師たち。平和運動に熱心だった、私は集会参加は全部断った。戦災傷害者の杉山千佐子さんともずいぶん衝突したな。彼女の体験をみんな涙して聞き、支援しようと誓ったんだが、実際には救済と記録の運動は両立できない。途中で分かれた。
 3代目の事務局長になった。名古屋で続く夏の戦争展や東海の空襲記録運動交流会の企画立案にかかわった。書店が開けるくらい戦争の本が家にあったが、2000年の東海豪雨で床上浸水し、水浸しになってしまった。




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