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語り継ぐ戦争 参拝拒否「糾弾」に投書した父 佐藤明夫さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 参拝拒否「糾弾」に投書した父 佐藤明夫さん (2018/07/19)

語り継ぐ戦争
参拝拒否「糾弾」に投書した父 佐藤明夫さん

1933(昭和8)年、岐阜県大垣市で「美濃ミッション」というキリスト教団体の信徒の児童が、伊勢神宮参拝を拒否した。その4年前にも同団体の信徒児童が神社参拝を拒んでおり、学校が保護者を呼び出し、市議会の話題になり、警察まで乗り出した。
 ちょうど満州事変後、国粋主義が強まっていた時です。それまでミッション経営の幼稚園に市議や医者も子弟を通わせていたのに、「伊勢参拝を拒む非国民的母親」などと極端な報道がされ、糾弾集会に3千人が集まった。幼稚園は廃園に追い込まれ、登校停止処分の児童は転校した。
 9・11テロの後、イスラム教徒を排斥した米国を連想します。この時、地元紙に「(一部の行動で批判されるのは)我々日本主義のキリスト信者にとっては迷惑千万」と投書したのが、地元の安八農学校長だった、私の父佐藤信夫(1889~1945)です。
 父は、「キリスト教がわが国体に何等違反するものでない」と書いている。多くの信徒が身をすくめる中、ある意味勇気ある行動だったが、体制に妥協する考えでしょう。
 それでも当局の注意を引いたらしい。当時、同窓会誌で資本主義の弊害を指摘する文章も公然と書いていて、その後、小規模校の郡上農林学校長に「左遷」されています。東大卒エリートの父には大きな挫折だったようだ。
 その後はおとなしくなり、日中戦争が始まると、全校で神社を参拝し、満蒙開拓青少年義勇軍にも生徒を送り出した。「働き」が認められてか、同県高山市の中学校長に栄転したが、45年1月、岐阜市で病死した。
 子どもだった私に父の内面は分からなかった。あの時代、不登校の兄や私が1年休学するのを黙って受け入れてくれた父ですが、庄内藩士の末裔。厳しい儒教教育を受けて育っていて、子どもに決して口答えを許さず、帰宅すると正座であいさつをさせられた。嫌で仕方なかった。
 戦後、愛知県の高校教師になり、空襲記録の運動を続ける私にとって、父は反面教師だった。美濃ミッション事件のいきさつを知り、人間教育を目指したクリスチャンの父がなぜ戦争に反対できなかったのか、と論文も書いた。
 ただ、その後、父が43年、高山で校友会誌に書いた文章が出てきた。激しい戦争の時代なのに時局に全く触れず、ただ精神修養の大切さを説く文章だった。生徒の父母が感心し、長く保存してくれていたそうです。
 父は第一高等学校時代に洗礼を受けた。若いころ、勤務した群馬県の町は、同志社創立者新島襄ゆかりの土地で、牧師が堂々と非戦論を唱えていた。父は自由な雰囲気を味わったらしい。大垣では時代が変わっていたが、父なりの主張をした。常に時流に合わせようとしたわけではなかった。




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