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語り継ぐ戦争 旧満州移民だった麦島博昭さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 旧満州移民だった麦島博昭さん (2018/07/17)

語り継ぐ戦争 旧満州移民だった麦島博昭さん

父は、岐阜県旧高鷲村(現在は郡上市の一部)が進めた旧満州開拓団の2代目団長でした。1940(昭和15)年4月、先遣隊としてソ連国境に近い琿春に入植。翌年、私も渡った。高齢の初代団長がすぐ亡くなり、父は終戦翌年の引き揚げまで苦労した。
 農家の次男、三男の働き口対策として、満州開拓は国策だった。村は、700戸中200戸を満州に分村させる計画を立てた。とはいえ、故郷を捨て海を渡る決断は簡単じゃない。志願者がなかなか集まらなかった。父は村の産業組合(いまの農協)専務で家や田畑もあり、親族も反対した。最後は村の有力者から「ぜひ」と頼まれ、断れなかった。
 父は42歳で軍に召集された時、病気ですぐ帰された引け目もあったのだろう。ほかにも村のリーダー格が説得されて行った。
 それでも足りず、明治時代、村から開拓に入った北海道の旧下川村(現・下川町)からも大勢来た。41年の入植者90戸中40戸が北海道出身です。
 土地の配分は、1戸当たり田畑が3ヘクタールずつ、林など雑種地が5ヘクタールと、高鷲村より何倍も広かった。北海道から持ち込んだ家畜や農業機械が役立った。わしも初めて馬で田起こしした。
 戦争があんな風に終わらなければ、開拓は順調だった。もともと原野ではなく、中国人の耕作地。日本人が勤勉に手入れした。稲も直播きだったが、田植えを持ち込んだ。うちは畑の世話に手が回らず、中国人の若者を雇った。
 ただ中国人にはどう見えていたか……。住む所も、もとは中国人の家だ。一度、泣きながら柱にしがみつき、立ち退きを拒むおばあさんも見た。あの恨みが終戦後、ぶつけられた。
 国民学校もでき、校長と男女の教師2人がいた。でも約60人の生徒を2クラスに分けただけの複式学級。勉強にならない。わしは1学期だけで帰国した。農林学校で勉強し、将来の開拓を担うつもりだった。
 ところが、3年だった44年8月、海軍の予科練に入った。何度も断ったのに、軍派遣の教官に「おっかあの乳が飲みたいのか」とけしかけられ、かっとなって志願させられてしまった。父は落胆し、満州の家の新築を取りやめた。
 爆雷を抱いて潜水する水中特攻要員になる寸前、終戦になった。指名を待つ45年8月、班長から「貴様の所もやられたぞ」とソ連軍の満州侵攻を告げられた。
 父が帰国したのは、終戦1年後だった。いまのわしよりやせ衰え、両手に杖をついていた。我が家は満州で祖父、弟2人、妹1人が亡くなった。生活再建は大変で、元団員がまた、ひるがの高原などを開拓した。戦前の村長がそのまま指導した。
 40年後、琿春を再訪した。80代の父も一緒です。うちで昔、働いた方と再会し、うれしかった。




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