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語り継ぐ戦争 戦艦大和の元軍医だった祖父江逸郎さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 戦艦大和の元軍医だった祖父江逸郎さん (2018/07/18)

語り継ぐ戦争
戦艦大和の元軍医だった祖父江逸郎さん

1943年9月、名大医学部を半年繰り上げ卒業し、海軍に入った。中国・青島で特訓を受け軍医中尉になり、戦艦大和に配属された。世界最大の戦艦は巨大なビルのよう。しかも浸水被害が広がらないよう細かく壁で仕切られている。「艦内旅行」で見て回るのも大変だった。会議で来た他艦の士官が、(通路で)よく迷っていた。
 乗組員は3千人です。冷蔵庫やラムネ製造器もあった。大尉以上は個室だった。海軍は、広い海で敵を探し、実際戦闘するのは数日だけ。一発主砲を撃つため、何十人もが息を合わせて動く。普段は猛訓練と手入れだ。「迅速」「正確」が、やかましく言われたね。
 ただ、緊張しっぱなしでは体がもたない。酒保で酒や食べ物を手に入れ、士官室でよく雑談したものです。南方の基地では、全乗組員を甲板に集め、映画上映会もあった。戦争映画じゃなくて、ドラマでしたね。演芸を披露する兵隊もいた。
1944年のマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦に参加したが、戦時治療所にいると、外の様子がまるで分からない。爆弾が当たっても気づかなかった。ただ、主砲を撃った時は、地震のように艦が震えたね。「敵空母轟沈」と戦果が伝わった時は、さすがに意気が上がりました。
 レイテでは、30分置きに敵機が襲ってきた。突っ込まれないよう、弾幕を張って防御するんだが、弾の破片まで落下してきて、兵に当たり、殺傷した。次々に負傷者が運び込まれてきて、戦闘中は止血が精いっぱい。普段なら手術室もあり、胃の摘出だってやるんだが、数が多すぎた。
 レイテでは、姉妹艦武蔵が沈んでいくのを見た。大和より対空設備が弱く、狙い撃ちされたらしいね。傾いた武蔵に対し、「帽振れ」。みんなで帽子を振った。この時、船が撃沈され、海に浮かぶ敵兵の近くも通った。それを銃撃する兵もいたが、すぐ止められた。
 その後、広島の江田島の海軍兵学校で教官をした。エリート教育の場なんだが、大戦末期で質が落ちていたのか、寝小便学生までいて驚いた。
 広島原爆の時は、校舎のガラスが割れた。数日後、偵察隊が組まれ、私も自転車で市内を走った。見知った街が一面、何も無くなっていた。焼け焦げた市電、遺体が山積みされた図書館……。もう戦争はだめだなと思った。
 海軍では、責任の重みをよく感じた。大和乗船前だが、青島から内地へ戻る時、夜の瀬戸内海でタンカーと衝突したことがある。船長がとっさに浅瀬に座礁し、沈没を免れた。冷たい海に投げ出されたら、700人の軍医候補生らの多くが死んだだろう。レイテでは、航海術の名人だった艦長の指示で、何度も魚雷をよけ、航行できた。戦後、医師や研究者として歩む時、海軍の経験は支えになったね。




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