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語り継ぐ戦争 焼夷弾攻撃で大けがをした木津正男さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 焼夷弾攻撃で大けがをした木津正男さん (2018/07/16)

語り継ぐ戦争 焼夷弾攻撃で大けがをした木津正男さん

1945(昭和20)年6月18日の未明、浜松空襲で自宅兼工場に焼夷爆弾が落ち、大けがをした。近所の人を逃がし、記録帳などを防空壕に入れ、ふたに砂をかけていたらミシミシ、ボン。焼夷爆弾が屋根を突き破り、爆発した。
 目をやられ、周りが薄ぼんやりしか見えなくなった。髪の毛が燃えていた。そしてガソリンに引火、また爆発した。一瞬、気絶したが、服が燃えだし、熱くて熱くて……。風呂に飛び込むと、「ジュ」と体中から音がした。悲鳴を聞いて、父と弟が飛び出してきた。父はすぐはぐれ、弟と逃げた。浜松駅方向は、「兄貴、だめだ。火の玉が来ている」。別の道で途中、小川に飛び込んだら、寒くてたまらない。弟に「洋服屋で服をもらってこい」。明け方、ようやく救護所に連れて行かれた。
 顔も手も背中もひどいやけど。両親や姉は俺と分からなかった。「ウー」といううなり声で気づいたそうだ。
 そのまま10月ごろまで意識がなかった。その間、浜松は艦砲射撃や空襲もあり、家族は俺をリヤカーに乗せ、逃げたそうだ。お袋が看病してくれ、カネも薬もなくて菜種油に粉を混ぜて塗ってくれた。
 戦後は後遺症がつらかった。手の指が動くまで3年かかった。68年、手術でようやく頭痛が治まった。皮膚や毛根が焼かれ、汗をかけないので体温調節ができず、夏は体がすぐばてる。
 浜松市は昭和30年代、戦災障害者の救済運動が始まった。市長も熱心で67年に実態調査し、活動補助金ももらった。名古屋市の杉山千佐子さん(9月に101歳で死去)が72年に結成した全国戦災傷害者連絡会には、当初から参加しています。
 ただ浜松市は自民党を含む超党派の運動だったが、杉山さんは旧社会党が中心。地元の仲間と「財布を握っている政党と交渉せず、大丈夫かな」と話したものです。
 うちは戦前から、鉄工所や製材所、機織り向けに電気モーター修理業をしていたが、43年ごろから軍需が中心になった。都市の同業者が空襲でやられた影響もある。仕事で四日市の海軍工廠にも行った。空襲直前の6月17日の昼間も、名古屋から兵隊が壊れたモーターを修理のために運んできていた。
 実はあのころ、うちも空襲対策で疎開も考えたが、田舎では電気が乏しいし、300キロもあるモーターを運ぶ動力もなかった。迷っているうちにやられてしまった。
 軍の仕事をしていたことと、けがも関係がある。45年1月、徴兵検査を受け、同級生が次々に出征したが、俺はいっこうに呼び出しがない。何故なんだ? 市の兵事係に聞きに行ったら、「君は軍の仕事をしているからだ」と言われた。もっとも同級生は内地で訓練しているうちに終戦になったのに、俺は残って軍の仕事をしていたばかりに大けが。それでいて戦後、何の補償もない。おかしいよ。




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