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語り継ぐ戦争 壁に弾丸、視界から上司消えた 北海道空襲を経験した尾形俊雄さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 壁に弾丸、視界から上司消えた 北海道空襲を経験した尾形俊雄さん (2018/07/14)

語り継ぐ戦争 壁に弾丸、視界から上司消えた
北海道空襲を経験した尾形俊雄さん

一瞬のことだった。
 2階建ての事務所の2階。壁や天井を弾丸が突き抜け、目の前に座っていた課長が、視界から消えた。上空にけたたましく響くエンジン音。米軍の戦闘機だとすぐにわかった。
 ロケット弾が炸裂。隣の部屋に逃げ込んだが、無数の弾丸が斜めの線となって追ってくる。「ドスン」。尻の左を棒で殴られたような衝撃を感じた。おそるおそる手を回すと、弾がめり込み、穴が開いたように肉がそがれている。死を覚悟した。
 1945年7月15日、北海道各地を米軍機が一斉に襲った。米海軍の機動部隊から出撃した艦載機が主要都市を攻撃。14、15の2日間で約2900人が亡くなったとされる北海道空襲だ。この体験を、尾形俊雄さん=苫小牧市=は今でもはっきり覚えている。
 あの日、尾形さんは江別町(現江別市)の勤め先「王子航空機江別製作所」にいた。元は製紙工場だったが、軍の要請で木製戦闘機の工場になっていた。入社から約1年の尾形さんは、部品管理課に配属されていた。18歳だった。
 日曜日にもかかわらず、何人かの社員が出勤していた。午前中、敵機飛来を告げる警戒警報のサイレンが鳴った。同僚といったん敷地内の防空壕に身を潜めた。
 敵機は現れなかった。「もう来ないだろう」。安心して職場に戻った。だが、その3時間後に悲劇は起きた。
 倒れていた尾形さんを数人の同僚が救出し、診療所に担ぎ込んだ。そこで課長が亡くなったことを聞かされた。視界から消える課長の姿が脳裏に浮かんだ。
 翌日、手術を受け、太もも付け根の前側を切り開き、弾を摘出した。今でも階段の上り下りがきつい。鈍い痛みが走るのだ。
 課長の席は自分と5メートルと離れていなかった。「生死を分けたのはわずかの差。奇跡なのか……」。空襲の1カ月後、治療を受けていた診療所で終戦を迎えた。
 「日本が負けるわけがない」。敗戦はショックだった。偽りのない当時の心境だ。しかし、尾形さんは言う。「日本は戦争を続けられる状態ではなかった。それをあとで知った。国にだまされた気分だ。なぜ銃後の一般市民が死ななければならなかったのか。悔しい。当時の国の上層部が憎い」
 慣れ。それが戦争の恐ろしさの一つだ、と尾形さんは言う。
 東京にある王子製紙の技術者養成所にいたころ、空襲警報を何度か聞いた。最初は恐ろしかったが、やがてそれは聞き慣れた音になった。「戦争は日常にすーっと入り込んでくる。感覚がマヒして、普通に感じられるようになってしまう」
 終戦から間もなく、尾形さんは詩作を始めた。王子製紙の子会社に勤める傍ら、北海道の大自然を多く詠み、退職後の10年ほど前には道詩人協会賞を受賞した。




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