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語り継ぐ戦争 18歳の冬に特高に連行、逮捕 前田黎生さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 18歳の冬に特高に連行、逮捕 前田黎生さん (2018/07/13)

語り継ぐ戦争
18歳の冬に特高に連行、逮捕 前田黎生さん

「お客さん」。名古屋市内の八百屋の2階で下宿していた私を階下から呼ぶ声がした。同時に5人ぐらいの男が上がってきた。「ちょっと聞きたいから来てくれ。すぐ帰す」。特高の刑事で、連れていかれたのは警察署だった。
 1936(昭和11)年12月、容疑は治安維持法違反だった。(当時非合法の)共産党へのオルグ(加入)活動をした、というのです。号外には(共産党員の家事を手伝う)「ハウスキーパー」と載っていたそうです。
 看護学校を卒業したばかりの18歳。学校時代の友人の影響で、昼間はタイル工場で絵付けをし、夜は金山駅前の通称、無産者診療所へ通った。診療所には(召集や逮捕により)医師はおらず、軽い病気や生活の相談に乗るだけだが、貧しい人らが大勢訪ねてきて、生きがいになっていた。今のボランティアみたいなもの。共産党員でもなかった。何も悪いことはやっとらん。
 「何で黙っとる」。取り調べは最初、きつかった。おどしたり、すかしたり。でもよく聞かれるが、拷問はなかった。
 だんだん刑事も私のことが分かったんでしょう。銭湯や外国船の見学へ連れ出されたり、留置場が足りなくなると宿直室へ移されたりした。お客さん扱いです。これならいつ釈放されるのかな。そう思っていたら8カ月後、起訴です。びっくりした。刑務所に移され、独房で仏教書を読んだり、女性看守に漢詩を教わったりした。月に一度、裁判所(現在の名古屋市政資料館)へ連れていかれた。
 釈放されたのは逮捕から4年後です。(保護司の)学者の紹介で、設立されたばかりの名古屋市の保健所の保健婦になった。
 当時は「産めよ増やせよ」の時代。洗濯場のおしめを目印に乳児のいる家を片っ端から訪ね、母子の栄養、健康の指導をした。
 「ええことやっとる」と思っていた。だが保健所も戦争態勢に組み込まれていた。2階では、徴兵間近の若者の体力測定もしていた。廊下に世界地図を貼り出し、日本軍の占領地に旗を立て、「勝った、勝った」とみんなで喜んでいた。(逮捕された)経歴のことは私も黙っていたので、ほとんどだれも知らなかったと思う。
 同僚と結婚した。夫は体が弱かったのに、空襲の度に市庁舎に詰めたり、遺体の片付けに駆り出されたりした。過労で肺に穴があき、戦後すぐに亡くなった。「保健婦なのになぜ気づかなかった」と周囲から責められた。
 幼い2人の子どもを抱えた私は戦後、復職し、保健婦の仕事に打ち込んだ。全国研修会「保健婦のつどい」を企画したり、「戦争と医学」の勉強会に参加したりした。
 特高の刑事には戦後、再会しています。高校生の息子が補導され、警察署に行ったら、いるじゃないですか。「あっ」と驚いたが、私に謝りもしなかった。そんなものなんです。




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