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語り継ぐ戦争 旧徳山村の少年通信兵だった大牧冨士夫さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 旧徳山村の少年通信兵だった大牧冨士夫さん (2018/07/12)

語り継ぐ戦争
旧徳山村の少年通信兵だった大牧冨士夫さん

ダムに沈んだ岐阜県の旧徳山村(現・揖斐川町)の出身です。1943(昭和18)年3月、国民学校の高等科を卒業した時、同級生32人のほとんどは村を離れ、軍需工場へ働きに出た。僕はただ一人、高等科3年に進み、代用教員として教壇にも立った。
 当時、村の神社に対空監視哨という施設ができた。僕も動員され、4人1組で昼夜詰め、敵機を見つければ、電話のある駐在所まで走り、岐阜市の本部に連絡した。でも走っているうちに敵機が岐阜市へ着いちゃう。どこまで役に立ったのか。仲間とだべっているのが楽しみだった。
 そんな村の若者が、44年6月、志願して新潟県の村松陸軍少年通信兵学校に入った。村を出て官費で学校へ行けるのが魅力。村を出発する時は、寄せ書きに「誠心必貫」と書いた。真心を貫くという意味です。普通なら「武運長久」と書くところでしょうね。戦死に直結する軍の学校に入るのに、精神修養のつもりだった。
 通信兵学校では、銃の使い方、モールス信号、暗号文の組み立て、解読方法を速成で覚えさせられた。教官は、アース線が凍結する酷寒の旧満州での体験を語った。無線機を前に、「(玉砕した)サイパンからの最後の通信で使われた機種と同じだ」と説明された。戦闘になれば、爆弾を抱いて戦車に飛び込めと教えられた。鉄拳制裁で殴られたこともある。
 1期上の先輩は、本来3年の訓練期間を1年弱に短縮し、繰り上げ卒業した。44年11月、フィリピンに向け、南方特別演習隊要員として完全軍装をして校門を出ていった。戦後知ったが、出発から9日後、五島列島沖で輸送船が撃沈され、315人中116人が死んだ。最近、ルソン戦で生き残った元少年通信兵にも会ったが、「何のために行ったんだろう」としみじみ話していた。
 僕は45年8月末に卒業し、本土決戦要員になるはずだった。しかしその直前、終戦の玉音放送があった。難解で最初は何も分からなかった。「銃の検査がない」とほっとしたくらい。雨で銃をぬらし、菊の紋章にしみができ、困っていたからだ。
 その後もしばらく、学校にとどまった。歩哨に立ち、学校の畑でカボチャ泥棒を見つけ、着剣した銃で追いかけたことがある。班長が止めてくれなかったら、突き刺していたかもしれない。もう少しで人を殺し、一生苦しむところだった。いつの間にか、僕も変わっていたんですね。戦後は、郵便局員や業界紙の記者をした後、徳山村の小中学校で教師をした。




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