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語り継ぐ戦争 陸軍の輸送部隊に所属した安田博さん 沈没・原爆、死線さまよう

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 陸軍の輸送部隊に所属した安田博さん 沈没・原爆、死線さまよう (2018/07/11)

語り継ぐ戦争 陸軍の輸送部隊に所属した安田博さん
沈没・原爆、死線さまよう

昭和18(1943)年、召集令状が届き、陸軍に入った。15歳で父親が死に、家には母と幼い妹、弟がいた。一日も早く帰りたかったが、命令には逆らえない。奈良や静岡で訓練した。激戦地のサイパンへ送られることになり、九州の門司で待機したが、船がなく、中止され、命拾いした。
 その後、船舶輸送を担当する陸軍の暁部隊へ転属になった。兵員や物資輸送のため、ニューギニアや中国へ行った。攻撃で何度も船が沈没し、死にかけた。
 民間から徴用した船が多く、船脚は遅く、小回りが利かない。海上を監視していても、魚雷発見が2キロ以内だともうよけられない。高射砲を撃っても米軍機に届かなかった。護衛の海軍もついていたが、すぐ逃げてしまう。攻撃終了後に戻ってきた。
 それでも俺ら船員は甲板にいたから海に飛び込んで逃げられた。気の毒だったのは兵隊だ。水が渦を巻き、傾いた船内に入っていった。多くの兵隊が閉じ込められたまま、死んでいった。
 広島で原爆(45年8月6日)を目撃した。マラリア治療のため、市街地から離れた陸軍病院・江波分院に入院中だった。朝飯の後、玄関で一服していたら、米軍機が飛んできた。何かを落とし、落下傘が開いた。何だろう。次の瞬間、ものすごい光と熱が同時に襲ってきた。
 「照明弾か」「ばか、昼間だぞ」。一瞬で顔が熱くなり、手で触った記憶がある。部屋長だった俺は、そばにいた約20人の仲間に「寝台に潜れ」と怒鳴った。次の瞬間、爆風で木造平屋の建物は壊れたが、何とか助かった。
 その後、全身やけどを負った住民がどんどん逃げ込んできた。体にウジがわいている。でも薬がない。吸い殻の灰を水で溶かし、つけてやるのが精いっぱい。ふらーっと力なく歩き、「水をくれ」を繰り返し、死んでいった。名札で身元が分かる遺体は倉庫に運び、ほかは露天で焼いた。
 夜は住民も兵隊も戸外にむしろを敷いて寝た。尾のついた青白い光の玉が、すーっとあちこちに飛んでいた。30はあっただろう。体が震えてならなかった。後日、市電でつり革につかまったまま死んでいる人も見た。
 まだ戦争は続いていた。病院から原隊に戻され、北方へ物資を運ぶ船に乗り込んだ。(8月15日)北海道の小樽近くの洋上で、終戦の玉音放送を聞き、広島へ引き返した。あのまま樺太か、千島にでも着いていたら、旧ソ連の捕虜になり、シベリア送りだったかもしれない。
 原爆は、小さな子どもまで殺す。むごいものだ。自分の命令で何が起きるのか。米国の大統領には広島であったことを知ってもらいたい。




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