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語り継ぐ戦争 「切断された足を埋めた」 看護婦養成所の生徒だった森喜代さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 「切断された足を埋めた」 看護婦養成所の生徒だった森喜代さん (2018/07/10)

語り継ぐ戦争 「切断された足を埋めた」
看護婦養成所の生徒だった森喜代さん

945(昭和20)年、私は岐阜県多治見市の県立多治見病院付属の看護婦養成所の生徒だった。米軍機は名古屋を空襲した後、北上して多治見を何度も襲った。病院に焼夷弾が落とされたのは5月14日。長さ30センチほどの筒が降ってきて、油が飛び散りあちこち燃え出した。玄関先の私の2メートル後ろにも落ちた。「火事だ」。叫んだが、みんなは防空壕の中です。レントゲン室の屋根へはしごで上り、火のついた瓦を放りだした。でも怖くて下りられなくなり、「だれか、来て」。まだ15歳でした。
 P51戦闘機に襲われたのは7月15日だった。小泉駅や昭和国民学校、多治見駅の旧国鉄列車を次々に機銃掃射した。乗客ら20人以上が亡くなり、けが人が続々と運び出された。その日は日曜日。私は病院前の自宅にいた。山の畑で目撃した母が飛んで帰ってきて「はよ行ったげやあ」。
 病院に駆けつけると、台湾人の当直医が1人だけ。私はまず肩口から銃弾を取り出す手術に付き添った。患者は1、2歳上の若者ですが、十分な麻酔もないのにじっと痛みに耐えていた。部屋を出ると、けが人がいっぱい。もも、脇腹、足……。亡くなると、玄関のけが人名簿に次々に線が引かれた。
 空襲でやられた名古屋や岐阜を始め、あちこちの病院から転送されてきた患者もいた。両手を爆弾で吹き飛ばされた妊婦は「うんうん」とうなっていた。「すぐ診てもらえるから」と励ましたが、運搬車から落ち、顔まで紫色に腫れ上がった。医師は「こりゃあかん。でも今なら赤ちゃんは助けられるぞ」。ところが、付き添っていた舅の男性が断ったんです。翌日出征する予定だった息子も同じ爆弾で死亡しているうえ、上の男の子が残されていて、「わしでは育てられん」。
 空襲のけがは、足が多かった。抗生物質がなく、すぐウジがわいた。毎日、うみだらけのガーゼを交換し、洗った。患部が腐り、血管に菌が入ると死んでしまう。よくのこぎりで足ごと切断した。その時、足を持っているのは私たちの役目です。
 とても見ていられません。顔を背けていると、医師が「ええか、しっかり持てよ」。ところが足はずしりと重くて、何度も落とした。手術室には足がごろごろしていた。翌日、足を両脇に抱えて運び、イモ畑に埋めた。雨の後、リンが光ったそうです。
 夜間空襲で裏山へ逃げる時、切断した白い足がぴょんぴょん追いかけてくる気がした。怖くて後ろを振り返ることができなかった。
 当時、毎日曜日、地元の女性たちと必勝祈願の七宮めぐりをした。でも内心は、「こんな戦争、早く終わってほしい」。いつも思っていた。戦前のまだ自由だった時代に高等女学校も出た母は、勉強できず働かされる私たちを「可哀想だ」と言っていた。その影響で私も戦争に疑問を持ったのか。玉音放送の時は本当にうれしかった。
 戦後、10年ほど東京で暮らし、セツルメント運動の診療所にかかわった。ちょうど原水爆禁止運動が始まったころで、第1回世界大会に参加した。「戦争はこりごり」。保守系の人も一緒で、広島行きの列車は貸し切り状態でしたね。いまも地元で空襲を伝える活動を続けています。




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