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空見上げ「助かったのは不思議」 九州大学に米軍機墜落から50年 1951年の目撃者と現場へ

 Uploaded by 朝日新聞社 空見上げ「助かったのは不思議」 九州大学に米軍機墜落から50年 1951年の目撃者と現場へ (2018/06/02)

空見上げ「助かったのは不思議」
九州大学に米軍機墜落から50年 1951年の目撃者と現場へ

米軍機ファントムが九州大箱崎キャンパス(福岡市東区)に墜落した事故から6月2日で50年になる。これを機に反基地運動が高まり、「米軍板付基地」の大半が返還されて福岡空港になったが、一部に米軍の施設が残る。福岡では、戦後の占領時代から100件以上の米軍機事故が繰り返された。
板付基地の滑走路から約1キロ。現在の福岡市博多区の二又瀬橋付近に、米軍機が墜落したのは1951年5月10日のことだった。橋のそばに住み、一部始終を目の当たりにした吉原学さんは、事故機の破片とみられる約20センチ四方の銀色の金属塊を見せてくれた。
 「あの事故からしばらくして、近くの溝の中で見つけたものです」
 製麺業を営んでいた吉原さんは事故当日の午前8時ごろ、配達に出るため家の前にいた。青い稲妻が光ったように見え、ドーンという音が響いた。
 米軍機は、吉原さん宅から数十メートル離れた木製電柱や木にぶつかり、数軒隔てたしょうゆ工場の煙突に衝突して墜落した。米軍機に取り付けられた補助燃料タンクが向かいの家に落ち、炎上。吉原さん宅の屋根には、折れた木製電柱が飛んできて刺さった。この事故で計11人が亡くなった。
 1955年6月15日には、近くの田んぼにいた親戚の女性が、米軍機の不時着事故に巻き込まれて亡くなった。吉原さんは空を見上げて語った。「私が助かったのは、本当に不思議」
 1968年6月の九大の事故では、板付基地に向かっていた米軍機ファントムが建設中の大型計算機センターに衝突、炎上した。操縦士は脱出し、けが人はなかった。当時はベトナム戦争の最中で、九大総長が先頭に立って街頭デモに繰り出すなど、基地撤去を求める声が大きく広がった。現場は学生らがバリケードで取り囲み、反戦・反基地運動の象徴になった。
 基地の大半が返還され、72年4月に「福岡空港」となった。だが約353ヘクタールの敷地のうち滑走路や誘導路など48・5ヘクタールが今も日米地位協定に基づく日米共用の「米軍一時使用区域」で、ほかに「米軍専用区域」が2・3ヘクタールある。国土交通省によると、2017年の福岡空港への米軍機着陸回数は94回にのぼり、全国の民間空港の中で最も多い。



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